どっかの馬鹿の妄想と生活と創作についての雑記。
∴ 私と数学と彼。 「まず、始めに言っておく。私は彼を抱いた」
私は他人に対して興味らしい興味を持ったことがない。そもそも興味とは何なのか、未だに答えは付かない。私が彼に感じる執着とは違うのだろうか? 幼少の頃から私は一人でいることが多かった。自然とそれが私だった。だから私は一人で暇を潰す方法は知っていた……が、他人を許容して遊ぶことは知らなかった。欠けていたと言ってもいい。 他人と何かをするということは、同時に私のテンポで物事を進めることができないということ。だから私は他人を許容して生きて行くことは酷く苦手だった。 横から私の積み木に別の積み木を乗せた同じ組の友人を泣かしてしまった時、私はそれをはっきりと自覚した。 一人で生きたい。一人で生きていこう。他人は許容できない。 私とは違うから。 しかし人間は社会という名の群体を構成する一部であると知っていた私は、仕方なく他人を許容して生きていくことを選んだ。 人間は一人では生きていけませんよ、先生。 確かにそうだ。そうだとも。 それを一番よく理解していて生きているのは私だ。 私はだからこそ、彼に感じているものは“恋”ではないと否定するし、彼に感じている物は倒錯的感情ないし性的欲求から来るものだと断言づけている。 彼に手を差し伸べたのは、確かに不憫であったという感情もあった。しかしその実はスムーズに姦淫を行う為でしかない。サービスに対して金銭を支払うのは当然だ。 間違っても恋ではないのだ。 そんな非論理的感情で己の生き方、あるいは感情を変えるほど私は愚かではない。 数学に感情は必要ない。 物事を考える時、感情は必要ない。 合理的に答えを導けば良い。 私はそう父から教わった。 私もそれを神の言葉として自分に刻みこみ、合理的かつ客観的に生きてきた。それをできない人間は愚かで、私とは別種の人間なのだと決めつけ生きてきた。 彼。 彼はどうだ。私と父と同じ分類の人間であるのに根底にある部分は感情だ。 不思議でならない。それが酷く美しいと思えることが不思議でならない。 私は恋をしたのか。他人を許容してしまったのか。 彼に君のことはどうでもいいと言ったとき、彼が希望を失った子犬のようにしょぼくれた表情を見せた時、私は何故あんなにも苦しかったのだろう。 結局のところ、私にも合理的とは何なのか、客観的とは何なのかということは分かっていないのかもしれない。 ……ああ、そうか。 結局“客観”や“合理”を選んでいる感情は“主観”なんだ。 なるほど、人が真の客観や合理を得ることは永遠に不可能だ。 なら私が今からする非合理的な行動も許容されて然るべきなのだろう。 私があの小娘と彼の姉を止める、という選択も。 PR ∴ この記事にコメントする
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幸せになりたいと思うけど、幸せを手に入れた瞬間、幸せを失うことを意識しなければならない。いつか消えてしまうことに怯えなければならない。だったらずっと不幸のままでいい。
あとネットで小説とか書いてます。ヤンデレとか好きです。
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幸福論でいけば確実に不幸な人間です。それに加えて変人です。自分ではそうは思わないのですが、みんなが口を揃えて変人というので多分そうです。人間関係苦手です。そんな名古屋人。
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